徒然糞

徒然なるまま糞

とうめいなよどみ

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発泡スチロール,石粉粘土,ジェスモナイト,着彩

180×175×145

2022

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 「とうめいなよどみ」は、身体・モノの関係と、その関係が持つ切り分けられない密接な空気の存在を元に制作を行なった。

 本来道具というものは、自然界とそこに住む人間の橋渡しの役割があった。しかし、整備されきった現代において、便利さを求める私たちの生活は、道具によって決定されている。

 その窮屈さを、身体とモノの関係に置き換え、更にそれが持つ内的な関係を形に表すことで、ほぐしていくことを目指した。

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 本作品では、木馬を道具という存在として捉え、人と道具の関係を見つめ直すモチーフとして採用した。

 交通手段として古来から利用されてきた馬は、交通の発達した現代において、本来人と持っていた関係が薄れ、娯楽的な要素が強くなったように思える。

 この先、私たちが頼り切ってきた道具という存在が消えた時、人は自然と共存することができるのだろうか。もしくは、そうなる前に道具が自然さえも飲み込んでしまうかもしれない。

ugly puzzle #3

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「ugly puzzle #3」
915×925×530/可変
2022

発泡スチロール 石粉粘土 数字とアルファベットのビーズ 着彩

 

人が着飾る表面的な記号にも、その人の人間性は断片的に、でも確実に刻まれていると思う。

私は表情の断片に、星を散りばめた。

そこら中に散りばめられた、キラキラ綺麗なお星様は、よく見ると人型の形、文字や数字の記号を持つ。

記号は公共的な存在のようにも見えるけれど、断片的で特有の表情も見せる。

物事を深く理解するために、人は対象の深層心理に焦点を当てがちだけれど、対象自身ですら理解しきれていない、潜在的なものからこぼれ落ちたその人の側面があると思う。

「わかった気になっているけれど」「わかっていないと思っていたけれど」そういう意外性は、常に存在する。

そしてそれは、表面的に見えているモノにこそ散りばめられているのかもしれない。

💩

いつもイライラしてる
黙ってイライラした分 一回口を開くと止まらない
あんたは生まれた時から黙ってただひたすら怒ってたって親に言われた
私は環境に対する日頃の鬱憤や個人的で収拾のつかない話は後に残らないように吐き出してきたつもり
制作と生活の折り合いをつけるのは難しい それを簡単に露呈させて逃げる周りに私は怒り狂っていたから
でも段々と私の中では制作も生活もまるきり繋がっている気がした
普段は自分に対して怒りを通り越してやるせない気持ちになるけど 自己否定感を担保に 免罪符に 上手いこと生きようとしている人間にはなりたくない
かといって息を潜めて人の弱みを握ろうとすることも 虚ろで空っぽだと思う
なんでも綺麗に端折る様式が自分を型に無理矢理押し込んでいて気持ち悪い気もした
だからイライラを逃げる手段としてではなく等しいものとして書き留めたいと思った
イライラが作品になることが楽しくてしょうがない時がある そういう時 人間の否定性と相対した所に私は生まれたのかもしれないと思う
4年前の卒制期間のカメラロールを見返すと 逃避に逃避を重ねて生きていたからか 作品なんかよりノートの隅の落書きの方がよっぽどきらきらしたエネルギーがちりばめられてる気がした
やりたいことを持て余していて わなわなした感じや武者震いにちかくて それなりに辛くて楽しかった
今はというと 逃避が怖くなって ひたすら疲弊してイライラしている 気を遣って自分を殺して人と話すのが面倒くさい 姉から「最近あんたの寝言は家では見せない他人行儀な声色だ」「余程疲れているんだね」と言われた

学校を死んだ目で見ていて でも4年間のことを思うと嫌いになりきれなくて それ自体が気持ち悪い
結局は 程よくイライラして程よく焦っているくらいがちょうど良くて楽しい
4年前のわなわなと4年後のイライラの美味しいところだけ摘み取りたいけど人間そう上手くできていない
だから楽しい 辛いことが楽しい

大嫌いな小学校の大嫌いな担任に「周りに厳しくて自分に甘いやつなんかダメな人間だ」と言われた
全然違う 自分の愚かさを愚かなまま認めないなんて 私の内面ではなくて おしなべた人間像を見て 臭いものに蓋をする腐った根性だと思う
愚かさを認めてから如何様にその愚かさと共存するか その端緒を探したいと思っているのはずっと一緒

filled membrane

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(あふれた)

コンクリート,塗料

 

60×80×45

 

2022

 

私は、人の存在を規定する上で生じる不明瞭な部分への探求を行う。人が関わりを持つ中で理解や具体化を行う過程に着目し、インターネットという仮想空間と入浴行為を手掛かりに制作を行う。仮想空間上で人が交流する時、その存在は自己意識によって脚色可能である。意識と身体に乖離が生じた仮想空間の存在は、仮面的であると考える。それに対し入浴は、生活の中で変化し続ける身体をリセットする、切り離す事の出来ない物質的行為であり、どちらも人という存在が起点にある。仮想空間では見えない身体と、入浴行為では見えない意識に共通する不明瞭な面を、自己を通し一つの形に置き換える事が、人々が関わる中で一つの糸口になるかもしれない。

nomadic list

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発泡スチロール,ジェスモナイト,石粉粘土,アクリル絵具

130×140×90

2022

 

人は人と関わる時、相手を理解する為にその人の持つ特徴を探し出す過程を踏む。

その過程から、同時に人は相手との共通点や差異によって、自分自身についても理解する事ができる。

私は、当たり前のように見えるこの行為の、無意識のうちに持つ視点、または見落としている部分に着目し、作品を通して提示する。

 


個々を規定するものは、単に他者と比較した中で生まれる特徴ではなく、あらゆる人や物事と関わる中で蓄積された経験から生まれる、その人の持つ潜在的な視点であると思う。

人という存在は、経験や身体の成長と共に思考と行動が不規則に変動し続け、固定化出来ないからだ。

このように、人は生活の中で常に変動し続けることで、自分という存在を浮き彫りにするのではないだろうか。

 


変動する関わりの中で生まれる軋轢こそ、人の持つ不明瞭な部分に対する理解へ向かう糸口になるかもしれない。

 

(本作品を産むに至った契機として、人間という存在の単位は本当に「一人」なのだろうかという考えがあった。

 

人という存在は、あらゆる人や物事と関わる中で蓄積された経験と共に、思考と行動が不規則に変動し続け、固定化出来ないからだ。

 

一つの存在の裏には、このような形を持たないその人のバックボーンが必ずある。私は裏にあるこの存在を、その人の持つ「ふくみ」と呼ぶ。

その「ふくみ」によって、明確な輪郭を持たない人間の真の単位は何なのか、身体の形の流れを借りながら探究した。

 

人が関わる中で見落とされがちなこの「ふくみ」は、言語や画像では捉えきれない多面性や矛盾、止めどない変動、軋轢の中にある。

人は単一体としてではなく、生活の中で常に変動し続けることこそが、自分という存在を浮き彫りにするのではないだろうか。)

水中駆動 個展 『ぼくなつ』

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中山 琳太郎・後藤 天泉 による水中駆動 個展『ぼくなつ』

会場 新宿眼科画廊 スペースS

会期 2022.03.11(金)〜03.16(水)

 

概要:日頃、「遠くても近くに感じる」「近くても遠くに感じる」そんな相反する感覚におちいることはないだろうか。

2020年、情報空間は私達が生きる為に必要不可欠な意味をさらに強く持ったように思える。それと同時に、生きるための人々の関わりはより間接的となり、存在の持つ形や質量、形同士の地続きの関係を曖昧にする性質を帯びるようになったのではないだろうか。それをふまえ、私達はものの操作性や不明瞭な部分に着目しながら、再度形や関係の持つ意味とは何なのかを考える。そして、私達水中駆動の「後藤」「中山」という存在をかりながら、現実への抽出を試みた。また、写真の虚偽性や、お絵描きチャットという参加者それぞれが違う場所にいながらも同一のキャンバスに描画が可能になる技術や行為性を手がかりに二人の間にある境界線を解しながら取り進めていくこととなる。

『ぼくなつ』は、

過去 現在 未来の時間軸

在・不在

現実・非現実

これらの交差点となる。

これら3つのレイヤーは、どれもが自己を起点に物事の存在を規定・構成する視点だ。

それらの混在する中に生じるジレンマが、何通りにも変容する在り方と、自分という確固たる存在との間で、答えの無い「存在」への眼差しを、より鮮明にするための手がかりとなれば幸いだ。

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新宿眼科画廊による展示概要サイト

https://www.gankagarou.com/show-item/202203nakayamarintarou/

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後藤天泉による漫画小冊子f:id:rntru:20220322024415j:image
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進化不全

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ジェスモナイト,ガラスマット

30×15×5

2021


 本作品を制作した動機として、まず「自然発生」という考えがある。内臓という領域は、その本来の自由を奪う形での、物理的・科学的な干渉が可能ではあるが、自身の身体をもってしても、内臓の持つ本来の存在方法を保持しながら視覚的、意識的創造、接触などは不可能である。作為性の持たないその形がその形である必要性は、人智の及ばない歳月によって構築されている。それは、外界の環境を取り巻いて決定された形の領域であり、より「自然発生」的であることが内臓という主題を持つ作品を制作するに当たって、純度を高めるのではないかと考えた。
 充填式の発泡ウレタンは、この「自然発生」の特性を持つ素材である。このスプレーを噴射した時の外界とウレタン内の空気によって形が決まり、気体に形をまといながら、その自然発生的な状態を保ち硬化する。このような「自然発生」という視点のもと、内臓とウレタンを重ねることで制作を取り進めた。
 また、自然発生的でありながらも、その流動性とは異なった、過去の環境や歳月を裏付けるように形に取り込む内臓の記録的な特徴も取り上げた。その特徴を取り上げる際に使用した手法は、ニトリルゴムの薄い膜を利用して流動的なウレタンの形に制限的な規定を付加したものである。直接的な作為性が自然発生する形に及ばずとも、外界の環境を設定することで間接的に干渉可能でありながらも、その限界を形に表出させた。
 さらに、その形を石膏の雌型から水性FRPであるジェスモナイトに置き換えることで、コピーという科学的領域に共通する干渉方法にも不完全性があることを、制作のプロセスに交えた。
 そして形の置き換わりが起きたことにより、外界の干渉を反映させた形になりながらも、そのようなプロセスを除いた、有機的な形を持つ結果を作品とした。干渉する際に逆行的に成り立ちを想起する場合にも、観る側の数だけ形の捉え方が変わる。内臓の場合、皮膚の下で行われる形の連鎖だが、擬似的であれどそれを外界に移行することで、そのような形の連想を展開できる。