徒然糞

徒然なるまま糞

二人展『なに それ まじ -Neo Somatic Method-』

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写真1:

壁面作品「ugly puzzle #1」-空間

手前立体作品「conic solid man」-量

写真2:右上立体作品「ugly puzzle #2」-空間

写真3:無題 -時間

写真4・5 : 撮影 weeb/KENMA studio(松本夏生)

写真6:「ranch」-身体

 

中山 琳太郎・wakapitch 二人展『なに それ まじ -Neo Somatic Method-』

会場IKENMA studio
会期I2021年12月10日(金)~12月16日(木)

 

概要:中山とwakapitch それぞれが持つ制作への視点の共通項から引き出した「身体」というテーマを皮切りに制作、対話、次制作への設定を繰り返すことでできた「時間」「量」「空間」の作品群によって展示空間を構築し、テーマの根幹にある一つの「身体」を二人なりの視点で作り出すことが目的とされた展示。

 

1回目「身体」:

「身体」についての明確な考えに至る中で大きく占めたものは、切り離すことのできない「自己」という身体の内側の領域と、身体を包括する「大地」という外側の領域に向けたものであった。

身体を象る為の、相対する要素のみが一つの形として両立した時、どんなアンビバレンスが成立するのかという問いである。身体の時間性は、「自己」と「大地」、それぞれの持つ時間軸によってあり様が幾重にも変わるように私は考える。

「自己」という人間中心的な尺度を超えて、身体が持つ本質的な恒久性とは何かを「大地」という視点から考えることは、より次段階的なモノそのものの在り方を提示するものではないだろうか。

在り方や物量という異点を凌駕し、同じ有機的な変容を持ちながら存在する「自己」と「大地」は、互いの潜在的な身体としての側面を顕にするように思える。

 

2回目「時間」:

そもそもの私個人の制作にある根幹のテーマとして「不可分な形の規定と行方」がある。

それは、平面や立体といった、二分化した概念世界とは違う、変容の延長にある、かたくもありやわらかくもある形についてなどの探究だ。

表情をうつし出す三面鏡は、そのような柔軟性を踏襲しているように思う。

立体を平面に、且つ平面を三通りに変換する。そして此方が動けば、鏡もそれに対応ししかし角度を変え、齟齬を与えながら動きを見せる。

このように、今に存在するモノの有り様をスライスしたような、分解と再構築の装置として機能する鏡の性質は、現在を包括し続ける時間にも共通する様に思う。

歴史という量感が時間の集積でできているとすれば、その莫大なスケールの中から、極微細な構成の連なりを垣間見ることができるのではないだろうか。

 

3回目「量」:

量を定義する構成要素とは何かをベタに考えたとき、そこには点・線・面から空間が成立するものではないかという結論に至った。

また、その極限的な物の構成と、この一連の制作の根幹のテーマである身体という視点を重ね合わせると、そこには滑稽ではありつつも、より根源的な身体の姿を垣間見ることができるのではないだろうか。

量を含みながらも簡素であり、それゆえに不安定で剥ぎ取られたままの姿が自立し見せる在り方は、決して見る者と見られる物を二分化できない視点をもたらすのではないだろうか。関係の融解によって、固定された形の規定を解すものとなれば幸いだ。

 

4回目「空間」:

空間とは、空間単体ではなく、空間たらしめる要素との兼ね合いで形作られるものではないだろうか。

私は彫刻という物量の在り方を考えるとき、それを内包する空間を考える。そして更にはその空間を内包する境界線のようなものが存在すると思う。

そのような入れ子の状態を連想するとき、私は添加するものよりも、限りなく削られた空間について考える。

それが、立体に相対する際の、平面という物量である。

そして、平面の中に更に空間を見出し抽出するとき、私の中では目の前で形が変容しても、この世界全体の量が一定であることについて考えが至る。

変わらない絶対的な量の中でまとう形が幾つにも変わる世界を考えると、なんて偏屈だと私は思う。

こうして空間を考えることは、とんちを思いつくことと同様な気もする。

連想の重なりで着地した結論のみを自立させた時、そこに見出されるものは、異様な風景であり、それが普段目にしている現在、そして身体という存在にも通底するものだと考える。

意味を無意味化する、逆行的な思考によって、変容し続ける形を探求したい。

 

 

bath room

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(ゆあみ)

発泡スチロール,ジェスモナイト,石膏,ウレタンフォーム,ペンキ

110×130×165

2021

 

浴室の中で身体と既製品が重なる時、私たちは身体を通してモノの自我を知覚しているのではないだろうか。

 

有機体と無機体が密接に関わる浴室という空間を通して、生活の中に溶け込んでいくモノとモノの関わりを再定義し、それによって新たに生まれる感覚とは何かを探り、カタチとして顕在化させた。

 

浴室には様々な視点が交差する場ではないだろうか。

浄化という行為の神性に触れる場・

湯船は、母体と胎児の関係を繋ぐ羊水を身体に想起させる場・

日々視覚に依拠した私たちが、身体の知覚全体を通して行う営みの場・

 

そんな根源的な行為と場の関係から見出される、言葉を必要としない在り方やカタチが生まれる事を、私は祝福したい。

hazy view

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石膏,墨,スタッフ
サイズ可変
2021

 

人が自らへ持つ視点と、他人に持たれる視点は、 決して一致できないと思う。そして私は、 それらの間に互いが干渉出来ない薄い膜の存在をイメージする。

私は常から、人々の視点がもたらす形の規定と、 その曖昧さについて考えている。

 

電子機器の普及に伴う、画像を通した情報の蔓延は、 視点という力に人々が依拠する事を進めたのではないだろうか。 しかし、視点は絶対的ではなく、 人々や情報の間で齟齬は必然と生まれる。


視点の絶対性という錯覚が、 齟齬の存在に揺らぎを与えその存在を認めない、 そのような傾向が、 ネット上にはびこる人々の行き違いから伺えた。

私は、その齟齬と膜のイメージとを重ね合わせ、 彫刻を通してその可視化を試みる。


膜への意識によって、一方向的な視点のみならず、 人々を取り巻く全ての感覚が柔軟に関係し、 繋がり得ることについて、私は形と対話しながら考えていきたい。

pedigree case

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石膏,白砂,石粉粘土,アクリルパイプ,墨,水性塗料
サイズ可変
2021

 

私は、存在の規定の在処はどこにあるのか、彫刻を通して探っている。その在処について自刻像を介し、像を象る型の内と外に視点を置いて考えてみた。

 

型という、形を持つモノとそうでないモノを分岐する記号、または顔という、人の個々の存在を分岐する記号、それらに主眼を置く。そうすることで、私たちがこの二つの要素に、存在規定を担う部品としてどれだけ機能を負わせ、依拠してきたかが浮き上がってくるのではないだろうか。

また、自分の血統の存在にも視点を置いてみる。そうすることで、自分の身体は単に一人という単位を持っているのではなく、複数の要素が精緻に絡み合い構成されている複合体であると考えることができないだろうか。私はそこに、パズルのピースのようなモノをイメージする。フィジカルではなく、より記号的な構成の次元に自分の身体を置き換える。それらを配置し、更に身体を空間化することで、私自身のみの物語ではなく、あらゆる人がそこに繋がり得る可能性を示す。

 

存在の規定は、絶対的ではなく流動的なものだと私は考える。絶対的なモノとして仮固定された存在への認識の解体を作品によって試み、それによってモノそれぞれが持つ在り方の方向を提示していきたい。

 

numb stone

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ウレタン,発泡スチロール,石膏,石,墨,水性塗料
サイズ可変
2021

 

 

子供の頃行っていた石の蒐集行為、

SNSで、心情を言葉やイメージを介して放出する行為、

亡き子が此岸の親へ行う、逆行した弔いによる、河原の石積みの造形行為。

 

この三つの要素を一つの形にインストールすることによって、不確定な形が如何に規定されているのか、硬化するまで予測できないウレタンフォームの特性を介し、体験を通じて確認する。

 

私は、心情を形に抽出する行為に興味がある。そしてその行為に基づいている、過去と現在の二つの実体験と「賽の河原の石積み」を制作によって追体験し、不確定な形が作品としてどう空間に表出するのかを試みた。

形を構成する要素は、決して物質的で明確なものだけではなく、それを取り巻く余白や時間、または不明瞭で流動的なものもあるのではないだろうか。